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令和元年「初日の出」 [歴史]


平成に続く令和の時代が始まった

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2019/05/01
令和元年「初日の出」 
高度1万4千メートルから見えた
headlines.yahoo
初日の出.JPG

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2019/05/01
天皇陛下お言葉全文 「即位後朝見の儀」
news.goo

天皇陛下が1日、「即位後朝見の儀」で述べたお言葉は次の通り。


日本国憲法および皇室典範特例法の定めるところにより、
ここに皇位を継承しました。

この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

顧みれば、上皇陛下にはご即位より、30年以上の長きにわたり、世界の平和と
国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心
をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこら
れました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を
申し上げます。

ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、
また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に
国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合
の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして
世界の平和を切に希望します。


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2019/05/01
新天皇陛下即位国民に最初のお言葉-戦後生まれ初、令和始動・皇位継承
headlines.yahoo

新天皇陛下が1日、皇位に就かれ、平成に続く令和の時代が始まった。

新陛下は同日午前、皇居で国民の代表と会う儀式「即位後朝見の儀」に臨み、
即位してから最初のお言葉を述べる。

新天皇陛下は1960年2月23日生まれの59歳で、お名前は徳仁(なるひと)。
戦後生まれの初めての天皇となる。



今回の皇位継承は、2017年6月に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」
に基づく。宮内庁の記録によると126代目の天皇となり、現行憲法が規定する
象徴天皇としては3代目、現憲法下での即位は2人目。

退位した陛下は上皇、皇后さまが上皇后となり、皇太子妃の雅子さまが新皇后と
なった。

政府は即位儀式として、1日午前10時半から皇居・宮殿「松の間」で皇位の証し
とされる剣と勾玉(まがたま)、国の印である国璽、天皇の印である御璽を受け
継ぐ「剣璽等承継の儀」を実施する。

剣や勾玉は鏡とともに、いわゆる「三種の神器」と呼ばれ、皇室経済法で
「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と位置付けられる。

儀式には安倍晋三首相ら三権の長や閣僚らが参列。同席する皇族は前例を踏襲し、
成年男性に限定された。

続いて午前11時10分から即位後朝見の儀が行われ、政府、国会、裁判所の要人や
地方代表ら約300人が参列。新天皇陛下のお言葉に続き、首相が国民代表の辞を述
べる。

皇位継承順位は、皇嗣になった秋篠宮さま(53)が1位、
秋篠宮さまの長男悠仁さま(12)が2位、上皇さまの弟の常陸宮さま(83)が3位。
皇位継承資格者の減少により、安定的な皇位継承に向けた検討が急務となる。

儀式に先立ち、政府は1日午前の臨時閣議で、二つの即位儀式を国事行為と位置付
けることを決定した。 

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「建国記念の日」の「の」には深い意味があった [歴史]


2月11日は「建国記念の日」だが、「建国記念日」ではない。

2月11日は戦前、「紀元節」と呼ばれていたが戦後、紀元節は姿を消す。
天皇の神格化に関係する祝日としてGHQ(連合国軍総司令部)の意向で廃止された。

1950年代に入ると紀元節を「建国記念日」として復活を目指す動きが高まった。

当時の政府は2月11日を歴史的事実として「建国の日」と位置づけることは避けた。
あくまで「建国というできごと」そのものを象徴し、祝う日とするという姿勢を取った。

法律は『古事記』『日本書紀』に基づく建国神話には言及せず、「日本が建国された日」
とも記していない。「建国をしのび、国を愛する心を養う」とだけ、記されている。

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2019/02/11
「建国記念の日」は、なぜ「建国記念日」ではないのか
headlines.yahoo

2月11日は「建国記念の日」だが、「建国記念日」ではない。

この「の」は、どこから来たのか。この祝日を制定した佐藤栄作内閣の国会答弁などを
紐解きながら、背景を調べてみた。

いまは「建国記念の日」である2月11日は戦前、「紀元節」と呼ばれていた。

由来は『日本書紀』に基づく初代天皇・神武天皇の即位日だ。これを太陽暦に換算すると
、紀元前660年2月11日にあたる。明治政府はこの日を「紀元」(建国の日)として、祝日
にすると定めた。


戦後、紀元節は姿を消す。天皇の神格化に関係する祝日としてGHQ(連合国軍総司令部)
の意向で廃止された。

1950年代に入ると紀元節を「建国記念日」として復活を目指す動きが高まった。

だが、紀元節の根拠となった『日本書紀』の内容が、史実であるという確証はない。

神武天皇が即位したとされる時代、日本は縄文時代の末期~弥生時代の初期にあたる。
即位日を裏付ける史料はない。なお同書では、神武天皇は127歳まで生存したことになっ
ている。


三笠宮さま「紀元節」復活に反対

皇族(昭和天皇の弟)で歴史学者でもあった三笠宮さまは、「紀元節」の反対の論陣を
張った。

1957年11月13日付の毎日新聞は、三笠宮さまが「この問題は純粋科学に属することであり
、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」と発言したことを報じた。

また、デイリー新潮によると、三笠宮さまは「紀元節についての私の信念(「文藝春秋」
59年1月号)」の中で、以下のように記している。


「日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節
の問題は、すなわち日本の古代史の問題である」

「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争
に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、
また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのであ
る」

「もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だから
こそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍
人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている」


「2月11日」以外にも候補があった?

「建国記念日」を定める法案は、1957年から何度も提案され、激しい論争となった。

当時の自民党が提案した2月11日以外にも、4月28日(サンフランシスコ講和条約発効日)
や5月3日(憲法記念日)、4月3日(「十七条憲法」制定日とされる日)なども候補にあが
った。


「建国記念日」ではなく「建国記念の日」

最終的には1966年、佐藤栄作内閣が2月11日を「建国記念の日」と制定した。
「建国記念日」ではなく「建国記念の日」だ。

2月11日を「建国記念の日」とするにあたって、当時の総理府総務長官・安井謙氏は国会
で以下のように答弁している。

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「建国をしのび、国を愛し、国の発展を期するという、国民がひとしく抱いておる感情を
尊重して、国民の祝日にすることといたした」

「明治初年以来七十有余年にわたり祝日として国民に親しまれてきた伝統を尊重した」
(1966年4月15日・衆院本会議)


安井氏は続く答弁で「日本書紀の史実についてこれは正しくないのだ、事実に間違ってお
るのだという学説は多々ございます」とした上で、神武天皇の即位日を「民族の伝承」と
した。

その上で「これを象徴的に建国をしのぶ日とすることは、すなおな国民感情に一番これは
触れてくる問題であろうという確信を持っておる次第でございます」と述べた。

佐藤首相も「建国をしのび、国を愛し、国の発展を期するという、国民ひとしく抱いてい
るその感情を率直に認めて、そしてこの日を定めようとするものであります」と、
「愛国心の涵養」に資するという姿勢から答弁した。

保守派から紀元節の復活を求める声が出る中、当時の政府は2月11日を歴史的事実として
「建国の日」と位置づけることは避けた。あくまで「建国というできごと」そのものを
象徴し、祝う日とするという姿勢を取った。

法律は『古事記』『日本書紀』に基づく建国神話には言及せず、「日本が建国された日」
とも記していない。「建国をしのび、国を愛する心を養う」とだけ、記されている。


「建国記念の日」の「の」という文字には、こうした背景があるのだ。

他の国の建国記念の日は?

諸外国をみてみると、どのタイミングを「建国」とするかで異なるようだ。

フランスでは、フランス革命のきっかけとなった「バスティーユ牢獄襲撃事件」の日
(1789年7月14日)を「革命記念日」として毎年祝う。

アメリカでは7月4日を「独立記念日」が建国の日とされる。1776年にイギリスから独立を
宣言した日だ。

中国では、1949年に毛沢東が「中華人民共和国」の成立を宣言した10月1日を「国慶節」
として建国を祝う。

ドイツでは東西ドイツの再統一(1990年10月3日)を記念し、この日を「統一の日」と定
めている。

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「幻の橋」雪原に 北海道 糠平湖 [歴史]


1937年に完成したが、士幌線のルート変更に伴い使われなくなった
タウシュベツ川橋梁。「幻の橋」11連アーチ橋。

湖の水流などで崩れゆく姿が人気
歴史を感じさせるものが崩れゆく、その姿がなんともいい。

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2019/01/30
「幻の橋」雪原に、北海道 糠平湖、タウシュベツ川橋梁
headlines
幻の橋.JPG


北海道上士幌町の糠平湖に架かり、水位が下がった時期のみ見られる旧国鉄士幌線の
11連アーチ橋、タウシュベツ川橋梁が雪原の中に全景を現し、訪れた人を楽しませ
ている。「幻の橋」とも呼ばれ、湖の水流などで崩れゆく姿が人気だ。

30日は青空の下、凍結した湖面にメタンガスなどの気泡が閉じ込められた
「アイスバブル」という現象も見ることができた。

兵庫県丹波市の主婦飯田弘子さん(66)は「この景色を目に焼き付けたい」と感激し
ていた。

タウシュベツ川橋梁はコンクリート造りで、長さ約130m、高さ約10m。
1937年に完成したが、士幌線のルート変更に伴い使われなくなった。

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凛として愛 [歴史]


資料に基づいて制作された映画で真実の歴史を知る。

『 凛として愛 』

「凛として愛」について 明治開国から大東亜戦争まで日本が戦って来た歴史を
約70分でまとめてあります

明治27年の朝鮮半島をめぐる清国との戦い
ロシア、フランス、ドイツの三国干渉
朝鮮半島、満州をめぐり大国ロシアとの戦い
満州事変、支那事変、ABCD包囲網

なぜ日本は戦わなければいけなかったのか
資料に基づいて制作された映画、真実の歴史を知る事ができます

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与那国島海底遺跡と巨人文明 [歴史]

古代の海底都市があったとする遺跡が見つかっている。
それらの調査から、古代の宇宙人と人類が接触していたのではないか
との見方もあるようだ。

与那国島海底遺跡、巨石遺構は巨人文明の謎などもそうだ。

海中遺跡で有名な沖縄県与那国島。
この島には、巨人の伝説があった。

与那国島を含むアジア・太平洋地域に広がる巨石遺構は、
有史以前の巨人が作ったものだった。そしてその巨人は、現在も生きていた!

スピ系のチャネリング文章などを読むと、異星人の中には確かに今の地球人より
遥かに背が高い種族がいるようだし、与那国島の巨人の伝説もあり得るかも知れない。

古代の宇宙人として海底都市と宇宙人という見方も一つあるようだ。
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2016/07/03
与那国島海底遺跡と巨人文明の謎



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古代の宇宙人 シーズン2 リンク切れ
gyao.yahoo

地球外生命体の可能性に迫るドキュメンタリー。
恐竜時代や古代エジプト、現代のアメリカなど、地球上で目撃されてきた様々な
宇宙人情報を検証していく。

この7,500年間、地球上で目撃された最も信憑性ある宇宙人情報を検証してゆく。
洞窟壁画に見られる奇妙な生き物の絵、エジプトのピラミッドの中で発見された
正体不明の生物の残骸から作られたアルファベットを象ったような物体……。

これらは検証する膨大なストーリーのほんの一部である。


古代の宇宙人 シーズン2 第15話 海底都市と宇宙人リンク切れ
gyao.yahoo

地球上のいたる所に古代の海底都市は存在しうるが、
これらは未知の文明の遺跡なのか? 

アトランティスの失われた文明は、古代の宇宙人の大都市を今に伝えるものなの
かもしれない。

ペルーのチチカカ湖の湖底で近頃発見された遺跡は、
地元で伝わる海底宇宙基地の伝説を裏付けている。
古代の宇宙人と人類が接触した証拠は、海の底深くに埋まっているのか?

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密林に浮かび上がるマヤ文明の遺跡 [歴史]

画期的な技術で少しずつ解き明かされる過去のマヤ文明の遺跡。
6万以上の古代マヤ文明の建造物。

ジャングルは非常に密生しているため、現地の史跡の大規模な調査が困難だったが
「太陽や星を肉眼で観察していた時に望遠鏡が発明されたようなもの」という
レーザー技術による「画期的な」空中マッピングにて発見された。

これらのデータから現在、研究者らは、かつてマヤ低地(現在のグアテマラとメキシコに
またがる地域)には、以前の調査で示された数の「数倍」の1000万人が住んでいたと
見ている。

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2018.08.18
密林に浮かび上がるマヤ文明の遺跡 レーザー技術で発見
マヤの遺跡.JPG

グアテマラ北部のジャングルの下に隠れていた6万以上の古代マヤ文明の建造物が
新しいレーザー技術によって発見された。

隠れていた数十の都市で発見されたのは、民家、宮殿、高さ約27メートルのピラミッド
などだ。このピラミッドは以前は単なる丘と考えられていた。

上空からジャングルの密林の中を見通せる特殊なレーザーを搭載した飛行機が可能にした
この画期的な調査が示唆しているのは、マヤの都市が従来考えられていたよりもはるかに
巨大かつ複雑ということだ。

農業、かんがい、採石場、防御設備の跡が広範囲で確認された。また大規模な道路網は、
コミュニティー同士がこれまで知られていた以上に密接につながっていたことを示して
いる。

従来の考えを覆す発見

米誌「ナショナル・ジオグラフィック」が最初に報じたこの大発見は、メソアメリカ文明
の営みに関するわれわれの理解を根本から変える可能性があると語るのはこの調査の共同
ディレクターの1人、米テュレーン大学のマルチェロ・カヌート氏だ。

カヌート氏は「あらゆる物が予想よりも多く存在し、規模もはるかに大きいことが
明らかになっている」とし、さらに「どの地域でも、予想を上回る数の建造物、建物、
用水路、段々畑が発見された」と付け加えた。

研究者らは、この広さ2100平方キロの広大な遺跡のデータを分析し、その地域の推定人口
も修正した。

現在、研究者らは、かつてマヤ低地(現在のグアテマラとメキシコにまたがる地域)には、
以前の調査で示された数の「数倍」の1000万人が住んでいたと見ている。

マヤの考古学を30年以上研究してきたカヌート氏によると、
「熱帯地方は文明の存続に適さず、(熱帯気候は)複雑な社会の維持に寄与しないという
のが過去100年間の一般的な考え方だった」という。

「マヤの社会は人口が少なく、インフラは皆無で、各都市国家は小規模で独立しており、
都市国家間の交流はほとんどなかったというのが従来の仮説だった」

「しかし、この仮説が誤りだということが明らかになりつつある。
今回の調査で、この地域に多くの人々が住んでいただけでなく、彼らは地形の生産性を
向上させるためにさまざまな方法で地形に修正を加えたことが分かる。

今発見されつつある多くの防御構造も、かつてこの地域に多くの人と資源が存在し、
それらが多くの競争を生んだ可能性があることを示唆している」

「画期的な」空中マッピング

中米のジャングルは非常に密生しているため、現地の史跡の大規模な調査は輸送面で困難
なことが多かった。しかし、「光検出と測距」(LIDAR)と呼ばれる新技術により、
考古学者らは上空から密林の中まで見通せるようになった。

空中写真図化(マッピング)は、底面にセンサーを装着した飛行機を使って実施される。
この装置は、自動運転車に使用されているのと同じ技術を使い、パルス状のレーザー光を
発射し、その光が戻ってくるまでの時間を測定することにより景観のマッピングを行う。

その結果得られたデータから、地表の等高線が表示され、研究者らはその等高線から林冠
の下の人工建造物を発見する。

考古学者らはこの方法で極めて詳細かつ前例のない規模の調査が可能になる、と
カヌート氏は言う。

カヌート氏は「これは熱帯地方における考古学者らの調査方法を根本から変える技術だ」
と指摘。「太陽や星を肉眼で観察していた時に望遠鏡が発明されたようなもの」と
付け加えた。

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富山の売薬 [歴史]

富山の薬売りと先用後利という理念。
富山の薬売りを追うことで時代の流れが分かって来る。

富山の薬売りは商いにしても、医は仁術という理念にも等しいことは
先用後利という「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の
基本理念から理解できる。

遠路はるばる富山の薬売りが全国を駆け巡り、置き薬と称して家庭の常備薬を
売りに来ていた記憶がある。漢方医薬だった。

明治になり漢方医学が廃止されたのは、西洋医学が台頭してきた時期なのか、
明治維新なるものが人びとの生活に大きく影響してきた時期でもあるのだろう。

用を先にし利を後にし、医療の仁恵、救療の志を貫通させよとの訓示から
医は算術という理念に変わってきた時期でもあるのだろう。

当時の時代背景からそうせざるを得なかった事も分かるが
富山売薬業の基本理念を再び蘇らせたいと思うのは私だけではないだろう。

「先用後利のシステムは画期的で時代の要請にも合っていた」とするが
今の時代要請はなんなのか、改めて考えてみたい気もする。

先用後利は
「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。
創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている。

始まりは富山藩2代藩主の正甫の訓示
「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を
貫通せよ。」と伝えられている。

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富山の売薬

1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代・江戸幕府の
委託事業、生産性の低い領地、などの要因で財政難に苦しめられていた。

そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために産業を奨励した。
そのひとつに製薬(売薬商法)があった。

富山では最も有名な合薬富山反魂丹
1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させた
ところ腹痛が驚異的に回復し、諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の
売薬は有名になったという巷談がある

18世紀になると売薬は藩の一大事業になり、反魂丹商売人に対する各種の心得が示
された。この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因であると

明治になって漢方医学の廃止とともに富山売薬が苦境に立たされるが、配置家庭薬業
界は結束して生き残りを図ろうとした。

明治の末期から大正にかけて輸出売薬は大きく伸び、中国・アメリカ・インドなど数
多くの国と交流があった。大正の初めにはピークに達し、日貨排斥運動が活発だった
中国市場の8割強が輸出売薬に占められた。

20世紀に入ると売薬に関する制度や法律が次々と整備
1914年には売薬の調整・販売が出来るものの資格・責任を定めた「売薬法」が施行
1943年に品質向上確保のため医薬品製造はすべて許可制とする「薬事法」
1960年には薬事法が改正され、医薬品配置販売業が法文化

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神島 [歴史]

昭和37年、神島を眺めつつ歌を詠まれた昭和天皇。
神島の神さまは戦前戦後と、どんなお気持ちで見守って
くださっておられただろうか。
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磯間浦安神社・神島
歌の名所磯間浦安に建つ恵比寿を祀る社
磯間の漁民に守られ続けている

神島
 神島は新庄町鳥ノ巣の沖に浮かぶ3ヘクタールばかりの島で、
〝おやま″〝こやま″の二島からなり、全島が照葉樹林で覆われています。

古くから神島神社の社叢として付近の人々から大切に保全されてきました。
1911(明治44)年に売却されようとしたとき、熊楠が神島の重要性を強調し、
保全活動を展開しました。

この運動は村民(当時は新庄村)の協力を得て、1930(昭和5)年に県指定の
天然記念物に、さらに1935(昭和10)年に国の天然記念物に指定されました。
 
 この島を特徴づける植物として、
亜熱帯性植物のハカマカズラ(マメ科)・キシュウスゲ
(カヤツリグサ科)・タキキビ(イネ科)・バクチノキ(バラ科)等の大群落や、
ウラジロガシ(ブナ科)・エゾエノキ(ニレ科)など普通の海岸林内では
見ることのできない内陸山地性の樹種の生育などがあげられます。

しかし、これらの植物は特に神島に限らず、
田辺湾周辺の豊かな海岸沿いの森で見られました。
熊楠は神島が国の天然記念物に指定された後、こう言っています。
 
「この島の草木を天然記念物に申請したのも、この島になんたる
 特異の珍草珍木あってのことにあらず。
 田辺湾固有の植物は、いまや白浜辺の急変で多く全滅し、また全滅に近づきおる。
 しかるに、この島には一通り田辺湾地方の植物を保存しあるから、
 後日までも保存し続けて、むかしこの辺固有の植物は大抵こんな物であったと
 知らせたいからのことである。」
 (「新庄村の合併について」牟婁新聞、1936(昭和11)年8月23日)

 神島には、天皇行幸を記念して

 一枝も こころして吹け 沖つ風 わが天皇の めでましし森ぞ

と詠んだ歌碑が建てられています。
 神島への上陸は禁止されていますが、現在も、浦安神社からは堤防越しに
 神島を見ることができます。


神島を眺める
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昭和天皇
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御(死去)により践祚し、
    昭和に改元。第124代天皇及び陸海軍大元帥となる。
1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行う。12月、御大典記念観兵式。
1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、
    粘菌などに関する進講を受ける。
1940年(昭和15年)、皇居前広場において紀元2600年奉祝式典に出席。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。

1941年9月6日の御前会議で、対米戦は避けられないものとして決定された。
御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて
発言をし、明治天皇御製の

「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海はみな兄弟と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。)

という短歌を詠み上げた。

1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)

   昭和天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問した時に、マッカーサー元帥は
  (マッカーサーメモによると)当初命乞いするのではないかと考えていたのに
   対し、昭和天皇は

   「私はどうなっても構わない、責任は自分がとるので、国民を助けてほしい。」

   と語り、マッカーサー元帥を大いに感動させた。 
   この会談内容については全ての関係者が口を噤み、
   否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではなかった。

1962年(昭和37年)
南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んだ。

   「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
1989年(昭和64年)1月7日・午前6時33分、
十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)、87歳。

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鷹狩り [歴史]

鷹狩りというのは古くから日本にある狩猟の一つであるが
、日本の多くの文化は、朝鮮半島や大陸からやってきたものが多い。

古代では権威の象徴的な意味をもっていたという鷹狩り、
今は一般規制のみを受ける自由猟法として残っている。

このように歴史のある鷹狩りは、そのルーツを遡っていくと
やはり朝鮮半島や大陸の文化にあることが分かって来る。

鷹狩のルーツに関して歴史上の国、地域の名として
雲南、満州、高麗、百済というのが良く出てくる。

日本の歴史としても高麗、百済の流れは色濃く、その流れでいくと
中国東北部の鷹狩りというのに辿り着く。

鷹狩のルーツとして満州もあることから、吉林省吉林市土城にある
鷹狩りの里は城跡の近くにある鷹匠橋から始まったルーツ巡りの
目的地になるのかも知れない。

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鷹狩wiki

古代
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、
古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。
日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する
鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。

古代の鷹狩は仏教の殺生禁止の思想と神道における贄献上の思想
(天皇についてはこれに王土王臣思想が加わる)のせめぎ合いの中で
規制と緩和が繰り返されてきたが、最終的には天皇と一部貴族による特権と
されるようになった。

中世
中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝や聖衆来迎寺六道絵の描写や
『吾妻鏡』・『曽我物語』の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。
室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。
安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。

近世
戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名で、
単なる鷹好きとか慰めの域を越えて確たる養生法と捉えていた。

鷹狩に用いる鷹の繁殖をはかるため、その巣を保護するため、
狩猟や入山を禁じた山もあり、それらは巣山や巣鷹山と呼ばれた

近現代
明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され、
1892年の「狩猟規則」及び1895年の「狩猟法」で9年間免許制の下に置かれた。
1901年の改正「狩猟法」以後、
狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として
今日に至る。
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鷹狩り概観-歴史・原理・実践-

東アジア
・オオタカで鳥・ウサギ
・シロハヤブサ、ハヤブサで鳥
・小鷹で小鳥
尾羽根に鈴、白い羽
雲南、満州、高麗、百済


日本の歴史
・仁徳帝43年9月 酒君 百済から
・万葉集、大伴家持
・新修鷹経 7c cf.フレデリック2の著書が11c
・7~10c 一条、村上etc
・兼光、源政頼 百済から 中興の租
・武家と公家 諏訪大社、持明院、西園寺
・「尾羽打ち枯らす」 王の大権の形骸化
・徳川から明治以降

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野生の鷹が集まる里の文化
이것이 야생이다

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満族の鷹狩り

2016-12/22
中国東北部の鷹狩りの里 鷹匠が雪の中で鷹の調教

12月21日、十数人の鷹匠が吉林省吉林市土城子満族郷曽通村の雪の上で
昔から伝わるスリル満点の鷹狩りを披露した。

同日、第22回中国吉林国際樹氷氷祭り・昌邑区の開幕式、
土城子郷樹氷鷹狩り祭りが松花江で行われ、鷹狩りのパフォーマンスは
観光客を楽しませた。

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免疫システムと人類の歴史 [歴史]

遺伝子から分かる壮大なロマン
免疫システムを通して人類の壮大な進化がわかる
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日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる。

ネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を
最も多く持つのが日本人。
どの集団よりも高く、約51%が持っている。

日本人の半数は内なるネアンデルタール人を有しているということが
今年の1月に明らかになった

花粉症も大変だが、生物が生きていくには欠かせないシステムである。
この免疫に関わるいくつかの遺伝子は
ネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」

花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、
免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、
内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない
(そんなことはありません)。

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2016/02/22
最もネアンデルタールに近いのは日本人?
免疫システムに残る人類の歴史

免疫に重要な役割をもつTLRの遺伝子

花粉症を含めたアレルギーは、もともと体に侵入した細菌やウィルス
などから体を守る免疫システムが過剰に反応しておこる。

花粉症も大変だが、生物が生きていくには欠かせないシステムである。
この免疫に関わるいくつかの遺伝子は
ネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったと
今年の1月に明らかになった。

遺伝学の科学誌「The American Journal of Human Genetics」で独の研究
チームが発表した。日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる。

ヒトはネアンデルタール人を滅ばして今の繁栄を築いた。
独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは現代人の遺伝子の中に、
ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」
の遺伝子をさがしていた。

人類の進化でエポックメイキングな最近の発見といえば、
ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が交配し
ていたことと第3の人類デニソワ人の発見だ。

この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、
ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに
広がった。

研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子。これまでの研究データもとに
ピックアップした。TLR(Toll Like Receptor)は細胞の表面にニョキニョキと
生えているタンパク質。免疫で非常に重要な役割を果たす。

体を外敵から守るには、まず外敵の侵入を関知しなくてはならない。
この防犯センサーの役割を担うのがTLRというタンパク質なのだ。

体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLRにくっつくと
センサーが作動し、外敵をやっつける細胞が集まったりと、
さまざまな免疫システムが動く仕組みだ。

日本人のごせんぞさま.JPG
我々日本人のご先祖さまである


ネアンデルタール人の遺伝子を最も多く持つ日本人

複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。
ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。

ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの
領域を調べると7つのタイプに分類された。
このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。

理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、
中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、
アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。

調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む
領域がほとんどみられなかった。

このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較して
ネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。

そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けても
ほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。

実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く
持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。

花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、
免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、
内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない
(そんなことはありません)。

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